1923年(大正12年)の関東大震災では、 死亡者10万人規模 、195の小学校のうち残ったのは2校と云う壊滅的な被害。

この小学校は、東京市が復興都市計画(区画整理)のひとつとして小学校校舎の耐震不燃化とするために鉄筋コンクリート3階建

で1930年に建築したものである。 86年を経た 現在でも校舎として使われ、越境入学を希望する父兄もいると云う伝統校。

 
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復興小学校は佐野利器などが中心となり構造設計に関わった。佐野は「構造至上主義」で装飾デザインは女子供のすることであると言い張った建築構造家である。しかし、よく見れば「昭和モダン」といわれる設計が多く当時の状況からドイツ表現主義的な傾向が強い。しかも、当初佐野はこれからの小学校には水洗トイレ、集中暖房、科学実験室設置などを導入しようとしたが、政治家や役人等が反対しむしろ「作法室」が必要として変更設置したが完成後に佐野がそれらを撤去させたと伝えられている

都市成長変化により、消えて行った「復興小学校」の方がはるかに多い中で地域にしっかりと根ざした小学校として、教育ばがりではなくコミュニティ形成の核となっていることを感じさせる「建築」である。そのために維持管理補修が確実になされて来たからこそ、この「姿」が残り続けていることと思う。

社寺仏閣などの日本古来の建築は保存されて来ている。建て替えて新しい建物をつくることが、当然のように考えられて来た、生活としての建築文化に目を向けて行く必要がある。古民家も町並修景や地活性観光資源として再生保存は行われている、それらに尽力している建築技術者も数多くいる。

ヘリテージマネイジャー、文化財修復塾で学んだことは「建築再考」のひとつのきっかけになったように思う。 文化庁が

近現代の建築物について全国的に調査しようとしている、先達の建築技術者の思いと技に触れる良い機会となることだろう。

2016年3月25日、27日撮影 FUJIFILM X30